リベラリズムと日本(1)

 日本で「リベラリズム」という言葉の持つ意味が西洋(特に英語圏)でliberalismという言葉が持つ意味と結構ズレがあるように感じます。というより、そもそも本来リベラリズムの訳語であるはずの「自由主義」とカタカナの「リベラリズム」の間にも何か大きな懸隔があるような気がするのは気のせいでしょうか?

 

では、この「ズレ」の原因は何なのかというところを少し考えてみたいと思います。

 

日本の「リベラリズム」

まず、日本の「リベラリズム」あるいは「リベラル派」のイメージというのはどういったものでしょうか。これはインターネット上の言説に慣れている方々には改めて言うまでもありませんが、リベラル派は往々にして「左翼」「売国奴」「反日」挙句には「在日」などの嫌悪に満ちたレッテル貼りをされるほど多くの人々に嫌われてることからもわかる通り、非常に否定的なイメージを持っています。

これを懸念してか否か、東京大学法学部教授であられる井上達夫先生が「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください」という本が出されるほど、「リベラル派」あるいは「リベラリスト」を自任する大学の先生方でさえ世間では「リベラル」が肯定的に見られていないという認識が広がっているようです。

その原因は決してひとつではないし単純でもないでしょうが、「リベラル」を嫌いな理由は実際に嫌いだと公言されている方々がネット上で懇切丁寧に説明してくださっているようなのでここではこれ以上追求しません。とにかく事実として日本では「リベラリズム」は明らかに一般的に肯定的に捉えられているとは言えません。

 

西洋のリベラリズム

では、西洋ではどうでしょうか。西洋ではなんと驚くべきことに日本と真逆の現象が起こっています。つまり、リベラル派は嫌われるどころか「リベラルにあらざれば人にあらず」とでもいわんばかりの雰囲気があるのです。ただ、西洋の「リベラル派」が日本の「リベラル派」と大きく違うのかというとそういうわけでもありません。少なくとも英語圏に限って言えば英語圏のリベラル派と日本のリベラル派は基本的な姿勢は同じですし、反対勢力に批判される時の批判の内容もかなり似通っています。つまり、日本で憲法9条支持派が「戦争反対」を唱えるように英語圏では「人種差別・宗教差別反対」が叫ばれていますし、9条支持派を批判する改憲派は9条支持派は「平和ボケ」しており現実に戦争の危機が迫っていることを無視していると批判されますが、同じように欧米のリベラル派は人種差別反対というイデオロギーに固執するあまり「テロ」という現実の脅威を故意に無視していると批判されます。

 

違いは何?

違うのは、どちらの主張がより説得的かという国民の側の判断にあります。西洋の国民はあれほどテロによって一般市民が無差別に殺傷される現実を目の当たりにしても、やはり「リベラル派」が正しく人種差別には反対すべきだし特定の宗教にテロの責任を帰すべきではないと考える人が数の上では多いのに対し、日本ではまだ戦争など起こらぬうちから「戦争の危機に備えるべきだ」という主張の方が「戦争を起こさないように努力すべきだ」という主張よりも説得的だと考えれやすいという違いがあるわけです。これは単に戦争やテロということに関してだけではありません。例えば人工知能の開発やクローン技術についてなど、倫理的に問題があるとされる技術に対する西洋人の態度というのは一般的に非常に消極的であり、人工知能ならまだしもクローンなどは研究目的だとしても許されないというような強い倫理的規制が明文化されていますが、日本では西洋に習ってヒトクローンの研究を規制してはいるものの、国民の目線では「ヒトクローン」をつくることが倫理に悖る邪悪な行為だというほどでもないんじゃないか、それは西洋的・キリスト教的な価値観に過ぎないんじゃないかという意見もあります。要するに、リベラル派の唱道するような「倫理観」の「正しさ」を日本国民は一応受け入れてはいるけれど、心情的には納得していない場合が結構あるんじゃないかということです。これに対して西洋では心から納得してしまっているか、納得できない部分があるならそれに関しては徹底的に批判するなり拒絶するかのどちらかなんですね。それだから、まるで西洋人みたいに心の底から「リベラリズム」が正しいと信じ切って納得してしまっている人が、普通の日本人には「過激」ないしは「ファナティック」に見える。あるいは「気持ち悪」く見える。でも、西洋では逆にそういう曖昧でどっちつかずな態度の方が信用ならない「嘘つき」という風に否定的にみられる。結局はそういう文化的な違いの面が大きいのかなという気がします。